祖父の事

 終戦記念日ということで,戦争について,より具体的には戦争の時代を生きた祖父について少し書こうと思う 。

 

祖父は戦争について語ることが殆どなかった。 若い頃遊び人で鳴らした彼はいつでも飄々と物事をやり過ごすのが習い性で,父曰く都合の悪いことや苦しいことは忘れる気質だったらしい。 土地柄戦争や原爆についての記憶が日常と地続きにあったこともあり,無邪気な子供の性分で何度か祖父に戦争について尋ねたことがあるが,いつも煙に巻かれて満足な回答を得たためしがなかった。そんな有様だったから小学生の頃,夏休みにお決まりの「 おうちの人に戦争についてお話を聞いてきましょう」という宿題も,祖父の協力を得られず他の小学生の作文から幾つか借用してお茶を濁した記憶がある。

 

そんな祖父は,何故かベトナムとの交流事業に関わっていた。祖父の会社が特段ベトナムとビジネスをやっていたわけではなく,地元がベトナムに深い縁があるわけでもない。子供心に不思議に思っていたが,大学生になった頃何かの折に父親に聞いたところ「 お祖父さんは若い頃ベトナムにいたんだよ。」

初耳だった。聞くと祖父は戦時中,南洋学院というベトナムサイゴンにある学校に通っていたとのこと。南洋学院とは,南方植民地を経営するための人材育成を目的に外務省と文部省の所管で設立された3年制の高等専門学校で,同じような高等専門学校としては上海に設立された東亜同文書院が 知られている。満州鉄道や外務省に多くの人材を輩出した学校として有名な東亜同文書院と比較して,南洋学院が無名なのは同校が3年間だけ開校された「 幻の学校」とされているためである。

俄然興味が湧いてきて祖父に直接尋ねてみると,彼は同校の2期生として入学したらしい。親曰く,実の母親( 自分からすると曾祖母)を早くに亡くして後妻として嫁いできた継母との折り合いが悪く,そんな折に目にした「生活費・学費全て無料」 の南洋学院の募集要項に惹かれて受験した。祖父は相当の悪童だったらしいから家でも持て余したんだろう,20倍近い競争を突破して合格した祖父は親との軋轢もなく意気揚々と海軍の輸送船でベトナムに向かった。

当時戦況は既に米側に傾いており,何度か砲撃を受けながらの航海だったが無事サイゴンに着いた祖父 はそこで日本とは全く異なる生活を送った。 国外ということもあってか戦時下でありながら南洋学院と同校の置かれたサイゴンはかなりリベラルな雰囲気だったらしく,南国の豊富な食べ物とともに祖父はその自由な雰囲気を満喫したようだ。南洋学院では植民地経営のための人材育成という目的に沿って安南語,仏語,生物学,農業経営といった実学に重点が置かれており, 学費生活費が免除される代わりに同行卒業後は官公庁か商社への就職が条件とされていた。祖父もその規則に従って卒業後, 三菱商事に就職したが戦況の悪化により現地で徴用され,通信兵として従軍した。

従軍中の話は虎を食べた等の断片的なエピソードを除いて祖父の口が固く,明号作戦に参加した他はどのような作戦に従事していたのか,現時点で聞くことができていない。

そうこうしているうちに1945年8月に終戦を迎え,動員・ 武装解除された祖父は,仏語能力を買われて進駐してきた仏軍と捕虜との通訳を務めることとなった。 その間に現地の華僑名士に見込まれたらしくその華僑の娘と結婚して現地に留まる話が進められていたようである。 本人もその気になっていたが, 横浜正金銀行の幹部に叱責されて愛国心に目覚め, 終戦の翌年船でベトナムを離れ復員した。

この祖父の戦争記を知った時は,ちゃらんぽらんな元遊び人の姿から想像もつかない波乱万丈の半生 に驚く一方で,ひとところに留まらず自分を取り巻く世界の外への興味関心が抑えられない自分の気質は祖父譲りであったのかと妙に納得した記憶がある。

その後,もっと詳しい南洋学院時代・戦時中の話を祖父から聞こうと考えているが未だ果たせていない。これは自分の系譜を子供に語り継ぐために残された個人的な宿題だと思っている。時間があまり残されていないので早く片付けたい。