日本語と外国語

   先日タイムラインに、小学校で英語教育を強化するべきか日本語教育(国語)にもっと力を入れるべきかって議論しているツイートが流れてきて、「そりゃ日本語教育だろ」とツイートで脊髄反射したんだけれど、少しそれを掘り下げて考えてみようと思う。教育論については素人なので、それなりに外国語に触れる経験をしてきた社会人(米国大学院で修士号取得、非英語言語での通訳業務経験あり)の立場からの意見ということで読んでもらえれば。フォロワーさんの中には言語教育を学んだ人や帰国子女の人がいるようなので良かったら適宜異論反論補足意見をお願いしたい。

 

   自分の考えをより正確に述べると、「社会人になってから学術分野やビジネスでも通用するような抽象度の高い議論を外国語で行うためには、その前提として相当程度高度な日本語力が必須。現状の国語教育の時間を更に上積みした上でならともかく、初等教育カリキュラムにおける総時間数が限られている以上、国語教育の時間を削る等して英語教育を強化するのは反対」となる。
そしてその理由を問われれば、「母国語能力を超える外国語能力が身につくことはないから」という点に尽きる。

 

 ビジネスマンや意識の高い学生の話題に上る、英語の勉強や留学の文脈においては、英語は意思疎通のツールとしてのみ扱われることが多いけど、言葉って本当はそれにとどまらないんだよな。意識してないけど私たちは言葉を通じて自分を取り巻く世界を認識し、それを自分にとって意味あるものとしている。目に見え耳に聞こえ肌に感じるものを「それ」そのままでしか受け止めることなく本能に従って処理するだけでは動物に過ぎない。「それ」を言葉で表し意味を与え解釈することで人は人たり得ている。


   そして重要なのは、実は私達が認識している対象とその「対象」を表す言葉は厳密には1対1で対応しているものではないということ。具体的にいうと、例えば「魚釣り」という言葉を聞いたある人が思い浮かべるのは「川辺でのフライフィッシング」かもしれないし、別の人は「船でのカツオ一本釣り」をイメージするかもしれない。私が視覚を通じて認識している「リンゴ」が他人の頭の中にある「リンゴ」と絶対的に同じものとは限らないのだ。


   それでも、テレビやネット等の情報通信手段や物流の発達等により、具体的な事物については、異なる地域に住む人同士の間でもある程度共通のイメージを持つことができるし、私の言う「リンゴ」と彼の言う「リンゴ」は同じものであるという約束の下にコミュニケーションは成り立っている。しかし、そうした言葉とそれが指す対象との関係は、対象が抽象度を増せば増すほどにその言葉が表す対象の輪郭や外縁に揺れや幅が生じ、そしてそれは異なる言語間においてはしばしば無視しえないほどのずれを生む。例えば、「人道」を表す言葉は日本語でも英語でもペルシャ語でも存在するが、それぞれの言葉がその範疇に収める意味は実は異なる。文脈、話者、伝える相手、事象の背景によって時に異なる訳語が与えられる程の違いが生じるのであって、そこに翻訳なり通訳の技術が必要となる余地が生じるんだけど、そうしたずれを認識するには抽象的な概念の外縁を意識的に把握できるほどに自分と世界をつなぐ血肉としての言語が必要となる。それはつまり、生まれてから膨大な言葉のシャワーを浴びて気の遠くなるほどの時間を費やして獲得される母国語以外他にない。それが基礎にあって初めて英語をはじめとする外国語の単語それぞれが表す事象と日本語のそれとのずれを意識しその言葉に対する理解を深め高度な議論を行うレベルで使いこなせるようになるのだと思う。

 

 で、平均的な7歳~10代前半における母国語の運用能力を考えてみると、まだ抽象的な概念を理解し使いこなすには不十分な年齢ってのは明らかで、その年齢の語学教育において重視されるべきは、日常的な言葉遣いを越えた抽象的な日本語の運用能力の強化なんだよ。英語じゃなくて。日本語能力が不十分なまま英語を勉強したって、日本語・英語とも街中で買い物して雑談する程度の語学力を身に着けるのが関の山なんだよな。
 これは経験的にも当てはまっていて、自分の周りの優れた外国語使いは皆もれなく非常に日本語の表現力・論理的思考力に長けている。反対に、駐在員の家族で日本語と英語を中途半端に混ぜた教育を行ったせいでどちらも貧弱な語彙と表現力、論理構成力しか身につかなかった人も多数見てきた。「優れた国語力なくして優れた外国語能力は身につかない」ってのは絶対的に言える。絶対に。

 

 小学生で英語を勉強する必要がないとは言わない。日本語にない英語特有の音を聞き分け発音する上では早い段階でそうした音に触れておくことに意味はあると思う。ただ、それにしても「国際語」としての英語をきちんと発音するのに大人になってから学んでも全然間に合うし、音の聞き分けと正確な発音を目的に、日本語能力が不十分な小学生段階において国語教育に優先して英語を教えることにどれだけの必要性があるだろうか、と問われれば自分は否定的に考えている。