孤独について

  40代の孤独について話題となっている日記を読んで少し感じるところがあったので書いてみる。

 

  独身40男が孤独にむしばまれていくというのは実感としてよく分かる。これには幾つか理由があると思う。

 

  まず一つは老い
  よく,「気持ちを若々しく保っていれば年を重ねることは怖くない 」という言葉を聞く。これは理想論として美しいけれども,実際に 肉体的な若さを失いつつある身としてはある種の空虚さを伴って響く。この手の「気の持ちようが大事」論もそうだし最近の様々な社会問題においてしばしば共通して感じることなのだが,「身体性」に 対する自覚があまりに乏しいのだと思う。

 


  30代半ばを過ぎてからはっきりと感じるのだが,この年代は体力と気力がそれまでにないスピードと顕著さで衰えていく。 仕事でも遊びでも若い頃のような無理(徹夜・オール)がきかなくなる。それどころか,頭痛腰痛に体の怠さ,首や肩筋の酷いこりと毎日どこかしら不調を訴える体に鞭を打って職場に向かうのは,仕事に慣れない若い頃とはまた違った辛さしんどさがある。


  「病は気から」という言葉があるが,逆もまた然りで,体の調子も心の状態に大きな影響を与える。体の不調に振り回されている うちに,1日の始まりに胸を膨らませる心の張りや季節の変化を読み取る感受性,新しい人やモノとの出会いを求める好奇心といったものが磨り減っていく。平日は仕事で必要なパフォーマンスをこなすのに一杯一杯となり寝ても若い頃のように前日の疲れは抜けない 。負わないといけない責任は増え精神的にも気が休まる暇はない。 週末は心身共に溜まった疲れから外に出かけて何か新しいことを始める気分にもならず,行き慣れた場所で馴染みの知人友人と顔を合 わせるのがせいぜい。そんな友人も同年代は結婚・出産でプライベートの優先事項が家族となり若い頃のようには気軽に会えない。 今更新しく友人を作るのも「億劫」だ。。。

 

  こうして気持ちがどんよりと澱んでいくなか,瑞々しさや好奇心を 失った精神の隙間に孤独が染みこんでいく。


  更に,こうした体の老化に否応なく引っぱられて衰えていく気力に加え,人生のステージングにおける40代が持つ重さも我々の心象風景に暗い影を落とす。

 

  以前に本ブログでも触れた白石一文の『一瞬の光』にこんな一節が ある。


「生まれ落ちた瞬間、誰もが祝福の光を浴びている。天上から、足元から、眼前から背後から、幾筋もの光が、困難な生を導くために それぞれの歩く道を照らしている。生きることは次第にその光を見失う行為だ。」

 

  若い頃は自分の将来は無限の可能性に満たされていて,努力次第で夢は叶えられるしなりたい自分になれると信じていた。それが40歳ともなれば人生は折り返し地点を迎え, 仕事のキャリアも終着点が相当程度はっきりと見えてくる年頃だ。 もはや可能性を追う年齢では無く,これまで積み重ねてきたものを どのようにアウトプットするか,社会と次の世代に何を残していくかが中心となっていく。そうして自身の社会人人生を振り返った時,「 これを成した」「次の世代に渡すバトンはこれだ」と世の中に対して広く胸を張れる程の実績を残せる人は決して多くない。 自分も含め多くの人にとっては,家族をはじめとするごく親しい人に対して,夕食の話題の中で少しばかり誇らしげに語る,そんなささやかなものだろう。組織という社会において代替可能な存在でしかない自己を受け入れ, そうした中でも自分という人間が存在した証。自分のこれまでの歩みを振り返って,それを知らしめる相手も承認してくれる存在もないことを知ると人は自分の人生の意義を見失ってしまうのかもしれない。

 

  では,孤独にむしばまれるのを防ぐにはどうしたらよいか。正直自分には確たる答えはない。結婚すればよい,子供を持つべきとの意見はよく聞く。ただ,相手によっては結婚生活が孤独を深めるケースもあるだろうし,子供についても育てる過程はともかく,孤独が 深さを増す壮年期以降に(その頃には)成人して彼等自身の人生を歩んでいるであろう子供達が我々の孤独を癒やす存在たり得るのか ,いや,そもそもそうした子供との繋がり方は親としてあるべき姿なのかと聞かれたら首肯する自信もない。

 

  自分は結婚していることもあり,件の日記の人のように差し迫って孤独を感じることはない。ただ,この先も孤独とは無縁の人生が約 束されている訳ではなく,この問題は潜在的にずっと考えていくことになるんだろうと思う。